橋本努『社会科学の人間学』勁草書房1999
序章 問題
近代の最大の批判者にして、「イラク戦争」(2003-)を政治思想的に正当化した政治思想家、レオ・シュトラウスとその弟子たちに問いたい。
あなたたちの思想はまさに、大量破壊兵器の事実確認という、「社会科学」の基本的な態度を侮蔑したのではあるまいか。近代の社会科学とその人間学を軽視してかまわないとするその傲慢な態度が、現在のイラクの惨状をもたらしているのではあるまいか。あなたたちは最悪のポストモダニストだ。「近代の社会科学は、すでにたそがれた」などと言うポストモダニストたちも同罪である。私たちのポスト近代社会は、その思想風土において、シュトラウシアンたちをのさばらせてしまった。だがもう一度ウェーバーに立ち戻って問わねばならない。社会科学によって、いったいいかなる人間を陶冶しうるのか。これはきわめて政治の問題なのだ。――2007年HP追記。
0.方法と人格
社会科学における「方法(認識)」と「人格」の関係はいかなるものか。本書の課題は、この一見無関係にみえる二つの理念のあいだに、自由主義のフロンティア精神と新たな秩序構想を見いだそうとする試みである。しかし方法にせよ人格にせよ、社会科学の営みがすぐれた成果を挙げているところでは、およそどちらも問題にされることがない。例えば「方法」について論じることは、社会科学における諸パラダイムの形成期と衰退期には必要であるが、その発展期にはほとんど問題にならない[i]。また「どんな人格を陶冶(育成)すべきか」という倫理の問題にしても、社会科学にとっては不要である。社会科学の研究とその成果は倫理的な問題から独立した妥当性をもちうるので、あえて「よき人格」を問題にしなくてもよいからである。
社会科学の営みは、そこにおいて批判的議論が活性化しているすぐれた学問伝統があるならば、その中でおのずと「方法」を体得するだろうし、また「善き人格」を陶冶していくこともできるだろう。しかし何らかのきっかけで社会科学の営みに支障をきたすならば、事情は一変する。およそ次のような諸問題が頭をもたげてくる。
いったい、社会科学をやって何になるのか。私が従事している社会科学は、はたして基礎のしっかりした「学問」といえるのだろうか。こうした事柄を教えたり学んだりすることに、どのような意義があるのか。日々の細かい研究作業は、社会科学全体にとっていかなる意味があるのだろうか。社会科学を営むことで、どうすれば「よく生きること」につながるのだろうか。社会を「認識」するという営みは、「実践」とどのような関係にあるのか。認識の営みによって「人格」を陶冶できるなら、そこから「よき社会」を構築していくことができるのではないか。社会を認識するという営みは、どのような文化的・人生論的意義があるのだろうか。……
こうした悩みや問題は、近代社会科学の発展に伴う副産物であると同時に、ある意味で社会科学的「認識」の根本問題でさえある。社会科学の認識は、専門分化の傾向と道具主義化の傾向を強めるにつれて、その営みの「文化的意義」――善き生を耕作(cultivation)していくような意味世界の構築――をますます少なくしていくという困難を抱えている。したがって社会科学のシステムが高度に発展すればするほど、「社会科学的認識の文化的意義は何か」という問題が、メタ・レベルにおいて一つの根本問題として立ち現れてくるのである。
もっとも、社会科学の機能をもっぱら技術的・道具的な有用性を目指すものだと割り切ってしまえば、何も問題は生じない。また、社会科学の成果を個々の事柄に即して意義づけることに満足するならば、その場合にも問題は生じない。しかし社会科学をたんなる道具以上のものとして意味づけ、またその意味を「営みの全体」において付与したいとなれば、問題は根本的かつ困難なものとなる。より包括的な見地から捉えた場合、はたして社会科学の認識という営みは、どのような文化的意義をもちうるのだろうか。
ここでいう「社会科学」とは、次のような諸条件を満たす営みである。第一に、認識が他の実践から区別され、「真理」が知識を取捨選択する原理として確保されること。第二に、世俗社会を対象とする学問であること。第三に、社会のさまざまな営みに対して、因果説明や理解や文化意義の解釈をもたらすこと。第四に、考察すべき主題の探求方法を体系化していること。以上のような諸条件をすべて満たすものを、ここでは社会科学と呼ぶ[ii]。
社会科学の「認識」は、それが一つの社会的な「営み」である以上、「それは善き営みなのか」という倫理的な根本問題を避けて通ることはできない。従来の社会科学は、一方では、批判的な態度を形成するという役目を引き受け、他方では、予測や実証科学に基づく道具的・官僚制的支配の制度を可能にしてきたが、こうした社会科学の「役割認識」は、はたして満足のいく意味づけなのだろうか。この問題こそ、今日における社会科学的認識の意義を根本から捉えかえすための重要な問いである。
この問題が根本的なものとして現れるのは、次のような二つの観点からである。第一に、社会科学を営むことは、自分の人生(あるいは人格形成)にとって、さらには自分の人生を支えている社会にとって、どのような意義があるのか、という問題観点からである。第二に、二〇世紀の社会科学――ここでは経済学・政治学・社会学を念頭においている――は、社会思想の発展にとってどのような意義をもっているのだろうか、という問題観点からである。第一の観点は、人間学=人生論的・社会哲学的なものであり、第二の観点は、思想(史)的・科学哲学的なものである。およそこの二つの観点から、「社会科学的認識の文化的意義」という問題を根本的に問うことができる。
そしてこの問題を問う際に重要となるのは、次の三つの研究史であろう。一つは、マルクス主義における社会哲学の流れであり、もう一つは、ポパー・ミーゼス・ハイエクなどにおける自由主義側の社会科学方法論である。そして第三の流れとして、ウェーバーにおける社会学方法論があり、それは人格論と密接に関連している。私は前著『自由の論法』において、マルクス主義と自由主義における社会科学方法論が「思想的対立」に基づくものであるという観点から、自由主義の方法論を批判的に検討した。そこにおいて示されたことは、社会科学の認識が、自由主義と社会主義の思想闘争を理性的に解決するという課題を引き受けていたことであった。これに対して二〇世紀社会科学方法論のもう一つの課題は、「いかに生きるべきか」という人間学にある。内田義彦によれば、学問の時代を画するような方法論議は「人間としてのあり方への問い」を背負って生まれたものであり、「そうした『方法の時代』は個人の中にも起こる。いや、個人の中でそうした瞬間が生まれないかぎり、学史上の方法論議は他人事としてしか映らないであろう」[内田義彦1974:308-09]。つまり方法論(社会科学の認識)の問いは、人間学的=人生論的な意義をもっており、それは個人においてもつねに問題となりうるのである[iii]。
そこで本書では、社会科学的認識の人間学的な意義について、とりわけウェーバーの方法論を中心に検討してゆく。社会科学の営みとは、社会を「認識する営み」である。社会を認識するという営みを通じて、われわれはどのような「人格」を陶冶することができるのだろうか。本書はこのような人格への問いを視軸にして、社会科学的認識の人間学的意義について問うていきたい。
しかしながら、方法論研究においてなぜ「人格」論が重要になるのだろうか。それには二つの理由が考えられるだろう。第一に、現代における「物象化論」や「リベラル=コミュニタリアン論争」において人格論が問題になったという事情がある[iv]。人格を問題にすることは、「いかに生きるべきか」という倫理問題を問うだけでなく、善き社会の構想を思想的に問うことと密接な関係にある。例えばコミュニタリアニズムの自由主義批判は、自由主義が生き方としての「善き生」を提示できない結果、よき社会を目指すプロジェクトを提示できていないという点にあった。本研究ではこの批判に対して、「社会科学の認識はその営みを通じて、自由主義のすぐれた担い手となる人格を陶冶することができる」ということを主張したい。
人格論が重要になる第二の理由は、最も重要な社会科学方法論の一つであるウェーバーの議論それ自体が、人格論と密接な関係をもっていたという事情である。実際、日本における社会科学、とりわけ社会学においては、ウェーバーの方法論と人間学の関係がつねに問題化されてきた。方法と人格の関係が重要であるのは、方法論の人格陶冶機能を自覚することによって、よき学問伝統を創出しうること、さらにそこから、善き社会の伝統を創出することにつながるからである。こうした点で、日本におけるウェーバーの方法論研究を批判的に継承することは、重要な意義をもっている。
以上の二つの理由から、方法論において人格が重要となる。以下ではこうした二つの問題状況をもうすこし敷衍して、本書が批判的に継承している問題とその意義を、既存の研究史のなかに位置づけてみよう。第一節では、「物象化論」と「リベラル=コミュニタリアン論争」の問題状況を素描し、現代自由主義の課題を位置づける。第二節では、ウェーバーの方法論とその研究史の意義を検討する。
1.自由主義の人間的基礎
社会科学的認識によって陶冶すべき人格像について、自由主義の側から新たなモデルを提出するというわれわれの試みは、現代の道徳哲学や政治思想の文脈、とりわけ「物象化批判」と「リベラル−コミュニタリアン論争」の文脈に、その意義を位置づけることができる。
「物象化論」とは、近代社会の機制が、「人と人との関係」を「モノとモノとの関係」に置き換えてしまう事態(すなわち物象化)を、批判的に解明する議論をいう。「物象化」の現象は、たんなる意識上の「疎外」現象とちがって、制度的・社会的な構造に原因をもつ。だからもしわれわれが「モノとモノとの関係」を「人と人との豊かな関係」へと変革したいのならば、たんに自分の「意識」を変革するだけでなく、「社会構造」を変革しなければならない。その場合、物象化論の実践的含意は、物象化現象を克服して、その先に「社会主義」社会のユートピアを築くことにあった。「社会主義」のユートピアとは、一方では「人と人との豊かな関係」として構想され、他方では「市場を排した計画経済」として構想されてきた。この二つの構想のあいだには架橋しがたい溝があるが、その中間にはさまざまな社会主義構想のバリエーションを構築することができる。物象化論は、これら二つの構想を実践的な価値とすることによって、近代社会の構造(とりわけ市場における人間関係)を変革しようとする実践をほとんどすべて、「社会主義」の名の下に包摂したのであった。この構図においてはしかし、自由主義の魅力は何一つ捉えられないであろう。というのも社会主義に反対する「自由主義」は、こうした構図における認識論と実践論の結合において、たんに現状を変革しない論理であると見なされてしまうことになるからである。
だがそれでも物象化論は、社会構造を根本的なところから「問題化」しうるという魅力をもつことは否めない。すなわち物象化論は、現在の社会関係を根本的に見直すための強力な認識手法として、今なお学問的な意義をもっており、そうした認識手法をもたない社会科学――例えば近代経済学――を批判しうる地平にさえ立つことができるのである。物象化論によれば、近代経済学は、近代社会の構造を与件としている以上、しょせん物象化された地平の論理にすぎない。近代経済学は社会の構造を根本的に検討することができず、悪しき近代社会の構造を基本的に容認せざるをえない点で、「批判的理性」にもとるというわけである。
こうした物象化論の主張に対して、近代社会の構造を基本的に肯定する「自由主義」の側は、どのように対応してきたのだろうか。おそらく自由主義は、ある意味で批判に打たれ強かったと言える。多くの自由主義者たちは近代経済学の意義を重視し、これを学問的に発展させることを通じて資本主義社会の正当性を擁護してきた。その際、物象化論による強力な批判には目を瞑ってきた。自由主義の正当化根拠は、次善として近代経済学――とりわけ新古典派経済学――の「科学性」によって与えられていた。それゆえ社会科学の布置連関においては、自由主義は、物象化を容認する新古典派経済学と結びつき、これを批判する物象化論の論理は「反自由主義」と結びつくという構図が成立したのである。この構図のなかでは、「人と人との豊かな関係」を考察したり、あるいは社会システムを根本的に「問題化」するということは、おのずと自由主義に反対する含意をもつことになったのであった。
こうして「物象化論」が生み出した学問−思想の構図においては、自由主義とは、社会を変革しない論理であるとみなされ、したがってまた、社会システムを根本的に問題化することができない論理であるとみなされた。この構図に対して、われわれはどのような批判的応答を試みることができるだろうか。第一に、自由主義は「社会科学の認識」という営みをどのように把握すべきなのだろうか[v]。そして第二に、自由主義は、物象化論の実践的含意である「社会主義」を否定するとしても、もう一つの実践的含意である「人格の理想」をどのように捉えかえすべきなのだろうか。ここに、自由主義をめぐる思想的問題の文脈がある。はたして自由主義は、物象化論における「批判的理性(=方法)」と「人格」の理想に対して、説得力のある応答をなしうるだろうか。
もっとも、自由主義の側がこの問題に応答する前に、「物象化論」の方が学問的に衰退することになってしまい、自由主義者は応答責任を免除されてしまった感がある。物象化論は、社会主義の理念と結びついてきたために、現実の社会主義社会が衰退するにつれて、社会構造を批判的に問題化するという意義を次第に失っていった。そこで物象化論に代わって登場したのが、コミュニタリアニズムの「人格論」であった[vi]。「物象化論」は、近代社会が「モノとモノとの関係」になっていることを批判的に認識したが、しかしどのような「人と人との関係」が望ましいのかについて正面から論じたわけではない。物象化されていない世界とは、人間が「モノ」としてではなく「人格」(尊厳ある人間)として扱われる世界である。では、どのような「人格」を陶冶することが望ましいのだろうか。この問題を正面から扱ったのが、コミュニタリアニズムの人格論である。
なるほどそれ以前には「実存主義」哲学が理想的人格像を提示してきたが、コミュニタリアニズム――とりわけテイラー、マッキンタイア、ウォルツァー――は実存主義における「主体」の倫理を批判しつつ、いっそうすぐれた人格像を提出しようと試みている。他方でコミュニタリアニズムは、現代の自由主義を道徳論的に批判するかたちで人格論を展開している。いわゆる「リベラル−コミュニタリアン論争」は、通俗的に理解されるような「共同体」対「自由社会」に争点があるのではなく、むしろ、陶冶すべき人格をめぐる論争に焦点があると解釈することができるだろう[vii]。そこで次に、この論争における人格論の意義を検討してみたい。
「リベラル−コミュニタリアン論争」とは、一般に、M・サンデルがJ・ロールズの『正義論』を次のように批判したことから始まるとされる。すなわちサンデルは、著書『自由主義と正義の限界』において、ロールズの自由主義擁護論が「文脈をもたない『負荷なき自己』」を想定している点で、各人は自由になるための権利や権能を剥奪されていると批判した。つまりサンデルによれば、ロールズの議論は、道徳的にすぐれた「人格」を陶冶していくようなプロセスを想定していないので、諸個人は自己喪失やアノミーに陥ってしまうというわけである。こうしたサンデルの批判は、C・テイラーの「強い評価者(strong evaluator)」という人間学的主張に基づいている[viii]。テイラーによれば、人間はたんに欲求する存在ではなく、自分の欲求を評価できる存在(=人間行為者(human agency))である。人間行為者は、自分の欲求(動機)に対して、上等/下劣、美徳/悪徳、洗練/粗野、深い/浅い、高貴/野卑といった、質的な評価をすることのできる「強い評価者」である。これに対して、単に自分の感じ方(feeling)や、結果として成功するかどうかによって欲求を評価するならば、「弱い評価者」=「単純な考量者(simple weigher)」であり、これではすぐれた人格を陶冶したことにはならない。自由主義者は一般に、道徳上の生き方については各人の選択に委ねられていると考えるから、理論的には、後者の「弱い評価者」に近い人間像を想定している。しかしコミュニタリアンによれば、まさに自由主義が要請するそうした理論上の前提こそが、規範論的にみて批判されなければならないのである。コミュニタリアニズムの自由主義批判は、社会科学の営み全体が、道徳的な人格というものを問わない結果、善き人格の陶冶を阻んでいると批判する点にある。
このように、物象化論と同様、「リベラル−コミュニタリアン論争」においてもまた、自由主義は人格の問題――「人と人との関係を豊かにすること」や「善く生きること」――を積極的に問えない教義であると見なされることになった。さらに言えば、経済学における人間観の問題もまた、人格の問題を問えない自由主義を批判するという構図になっている。一般に、新古典派経済学のような社会科学は人格の理想について問わないことから、自由主義とは道徳的には薄っぺらい個人主義にすぎないのではないかという疑念が生じている。実際、人格について問わない新古典派経済学は、思想的には自由主義と結びつく傾向がある。これに対して「人格」に関心を寄せる人たちは、経済学における人間像に対する不満から、反自由主義の立場をとる傾向にある。彼らは人格を問題化して厚く記述することの重要性を強調し、また、「善く生きること(well-being)」の理念を社会的に問題化し、自由主義に反対する傾向がある。
こうした構図において、自由主義はどのように応答すべきなのだろうか。歴史上これまで自由を論じた人たちの多くは、「善き生」について何らかの構想をもっていた。しかし狭義の「自由主義」となると、多くの場合、何が望ましい生き方であるかについて積極的な応答を試みていない。というのも、自由主義者にとって「社会」とは、その中で各人が自分の選んだ「善き生」を追求することのできる「制度的枠組み」であり、生き方について「中立的」であることが望ましいと考えられているからである。また自由主義は、自由社会の制度的原理(正義の原理)を正当化するために必要な「最小限の人格理念」を探求しようとするので、人格理念に過度の負担をかけることを避ける傾向にある。こうした事情から自由主義は、社会制度に関する教義たりえても、人間の生き方に関しては十分な教義たり得ない。つまり自由主義とは、制度の学ではあっても、陶冶すべき人格理念の学ではない、ということになるのである。しかしわれわれは、自由主義的な方向において、一つの理想的な人格類型を考えることはできないだろうか。
「物象化論」と「リベラル−コミュニタリアン論争」の検討から分かることは、現在の自由主義が、二つの大きな問題状況におかれているということである。第一に、自由主義は社会科学の認識とどのような関係をもちうるのか、という問題がある。物象化論は、一つのすぐれた社会認識論を提供したが、それは社会主義構想という実践的含意をもっていた。これに対してわれわれは、自由主義の実践的含意をもった認識(方法)論を構想することはできないだろうか。第二に、自由主義は、人格の理想を積極的に論じることができるのか、という問題がある。自由主義のすぐれた担い手とは、どのような人格理念なのだろうか[ix]。
これら二つの問題には重複している部分があり、その重複領域に照準してみると、さらにいっそう重要な根本問題を設定することができる。すなわち、
社会科学の認識という営みは、いかにして自由社会を担う
すぐれた人格(人間類型)を陶冶しうるのだろうか
という問題である。一般に自由主義は、社会の基本構造(制度)を正当化するための論理を探求するが、これに対してわれわれは、そうした「制度としての自由主義」を内容として豊かなものとするために、「プロジェクトとしての自由主義」というものを探求したい。われわれが反対するのは、制度としての自由主義を認めながらも、人格理念上は自由主義に反対するという議論の建て方である。「制度としての自由主義」を補完するものは、人格理念上の自由主義でなければならない。そこで問題は、自由な社会を豊穣化(複殖)する担い手=人格の理想とはどのようなものか、ということになる。
プロジェクトとしての自由主義は、たんに制度的に自由を確保するというのではなく、自己と他者と社会制度のすべてを多元的に成長させていくような政策と人格上の美徳を求めている。そうした理想を人々が抽象的なレベルで共有するならば、それを「成長への共同投企」と呼ぶことができる。各人は、たとえ追求している個別の事柄が異なるとしても、高次のレベルにおいて「成長への投企」を共有し、互いに切磋琢磨することができる。その場合の「成長」とは、自己・他者・社会のすべてがそれ自体の自己展開によって、多元的でかつ未知のよりすぐれたものに豊穣化することを指している。「成長(growth)」は、あらかじめ確定された目標に達する「発達=発展(development)」の理念とは異なり、またそれ自体のまったく新たな展開として予測できない異質なものへ転化する余地を与える「進化(evolution)」の理念とも異なる。「成長」は、あらかじめ定まった目標を設定してはいないが、しかしまったく未知のものに転化するのでもないような価値現象を捉える理念として、類概念との差異を規定することができる。
このように定義される「成長」概念は、しかし具体的なレベルにおいてはいろいろな基準があるだろう。例えば、経済成長率、豊かさ指標、健康指標、環境にやさしい生活の指標などである。こうした諸基準を互いに拮抗させて、何がよき成長であるかについて争うならば、われわれは成長についてよりすぐれた基準を見いだす可能性を保持しうる。何がすぐれた成長であるかについての基準は、それ自体がメタ・レベルにおける「成長」基準に服しているのであり、いわば成長の成長、言い換えれば「メタ成長」が、成長のための重要な条件となる。「成長への投企」は、「メタ成長への共同投企」を必要不可欠の条件としている。
こうした「メタ成長」を中心的な理念とする社会の構想を、われわれは「成長論的自由主義」と呼ぶことにしたい。「成長論的自由主義」は、自由(非強制)を失ってまで社会を成長させる必要はないと考えるが、しかしできるだけ自由を確保しつつ、自由を有効利用して社会を多元的に成長させるべきだと考える[x]。そこで問題は次のように言い換えることができる。すなわち、「『自己と他者と社会を成長させるための条件』を自由のうちに求めること」の条件とは、どのようなものか。とりわけその「社会認識論」と「人格論」の基礎は、どのようなものだろうか。
われわれはこうした問題を「成長論的自由主義」という観点から検討しようとするわけであるが、その際、まずこの理念を従来の自由主義における議論と対比しておくことが必要である。従来の議論では、自由社会を基礎づける「認識論」と「人格論」の関係は、とりわけ次の二つの命題によって与えられてきたように思われる[xi]。すなわち、
1.「選択の自由」を最大限に有効利用するために、可能な選択肢を多く知る人間を生みだす必要がある。そのために社会科学の認識は、個人に可能な選択肢を提示したり、あるいは、可能な選択肢を探すという個人の能力を陶冶することができる。
2.諸個人の自律(主体)という自由を確立するために、自分で自分の生き方(究極的価値)を選ぶことのできる人間を社会的に生みだす必要がある。そのために社会科学の認識は、各人が生き方(究極的価値)を選ぶことを介助し、自律を促すことができる。
以上の二命題である。第一の命題は「選択主体」(=可能主体)の理想であり、第二の命題は「近代主体」の理想であると呼ぶことができる。この「選択主体」と「近代主体」の二つは、一人の人間の中で両立しうる理想であるが、しかし基準としては別である。「選択主体」は必ずしも「近代主体」を必要としないし、また「近代主体」は必ずしも「選択主体」を必要としない。例えば選択肢を多く認識することは、生き方としての価値を選びとることがなくても実行できる。逆に、生き方としての価値を選び取ることは、それほど選択肢が多くなくても可能である。いずれにせよ、これまで社会科学の認識は、自由主義の側からみた場合、「選択主体」と「近代主体」という二つの理想的な主体像を陶冶することに意義があると考えられてきた。
しかし社会科学によって陶冶しうる最良の人格理念は、自由主義の側からみた場合にも、はたしてこれら二つのモデルでよいのだろうか。「成長論的自由主義」という観点からみた場合、これら二つの人格理念はいずれも、人間的基礎を与えるものとしては不十分であるようにみえる。「選択主体」は、それだけでは「成長論的自由主義」の社会を担う「すぐれた人格」を陶冶するにはいたらない。人格の理想は、可能な選択肢を探索した後に、さらに、どのようにして選択肢を絞りこむか、という「認識の運命化機能」を必要としている。また「近代主体」も、究極的価値を選び取ってしまっては、そこから新たな成長への投企を困難にしてしまうという点で、やはり成長論的自由主義の担い手とはなりえない。成長論的自由主義にとって、「選択主体」は理想として弱すぎるし、「近代主体」は理想として強すぎる。成長論的自由主義は、この二つの人格理念のあいだに、別の可能性を見いださなければならない[xii]。
本書の中心課題は、まさに、自由主義が社会科学の営みを通じて陶冶しうるような、新しい人格理念を提出することにある。したがってわれわれの自由主義は「積極的自由(〜への自由)」を掲げようとするものであり、この点でI・バーリンの警告を破ることになる。バーリンはかつて、積極的自由を掲げる立場が集団主義を支持してしまうことの危険性を指摘し、自らは「消極的自由(〜からの自由)」のみをすぐれた「自由」概念であるとみなした[Berlin 1969=1971]。これに対してわれわれは、そうした危険を避けつつ、個人主義的な方向で積極的自由の理念を社会構想に結びつけてみたいと思う。この企てにおいて検討すべきは、なんといってもウェーバーである。次節では、われわれがウェーバー研究を批判的に継承することの理由と意義について説明したい。
2.ウェーバー研究の批判的継承
かつてウェーバーは学生たちに対して次のように述べたことがある。「現代の社会科学者の誠実さは、その人のニーチェとマルクスに対する態度によって測られよう。……われわれが生きている世界は、ニーチェとマルクスによって深い刻印を打たれた世界なのだ」と[Baumgarten 1964:536]。この一節に付け加えて言えば、今日のわれわれの世界はさらに、ウェーバーによって深い刻印を打たれていると言えるだろう。近代化論をはじめ、ウェーバーの議論はそれぞれの研究の古典的な位置を占めている。それだけでなく、ウェーバーの生き方は、それ自体が現代を生きるための「一つのモデル」として、いまなお人間学的な関心を引きつけている。それゆえウェーバーに関する研究は、「学問」と「人生」という二つの点から、その意義を認めることができる。
ウェーバーを「学問」の側から研究することは、ウェーバーの著作を社会学の古典として検討し、それを理解し伝達することによって、社会学の基礎(土台)を維持するという意義をもっている。例えばウェーバーのテキストを詳細に検討する能力をもつ人は、社会学という学問システムの基礎(土台)を再生産する担い手となる。また、まだ訳されていないウェーバーの著作を翻訳したり、誤訳をチェックしたり、社会学史の一節としてウェーバーを伝承したり、新しい社会学の知識をウェーバーの観点から批判的に評価するという役割は、社会学という学問システムを維持・強化するために、一定の意義をもっている。
ウェーバーを研究するもう一つの意義は、人間学=人生論的なものであり、それはウェーバーの人生を「生き方のモデル」として描いたり、ウェーバーのテキストから人間学的な含意を積極的に読みとることにある[xiii]。とりわけ、「ウェーバーはどのような人格を理想として生きたのか」という問題は、ウェーバーからすぐれた精神的な起動力を得たいという欲求から自然に生まれた問いであった。ウェーバーに限らず、「生き方のモデル」を多く知ることは、人格を陶冶するさいに重要な契機となる。それゆえ、ウェーバーの生き方に関する研究もまた、人文学や倫理学における教育的な観点から一定の意義をもっているのである。ある意味でウェーバーから学ぶべきは、その学問内容よりもむしろ、その生き方や精神性である。生き方や精神性を学んだり批判的に検討するためには、ウェーバー伝とウェーバーの学問論を研究することが重要となる。
このように「学問」と「人生」という二つの点からウェーバーを研究することを、「狭義のウェーバー研究」と呼ぶことができるだろう。本研究はしかしながら、「狭義のウェーバー研究」に属するものではない。むしろこれまでの「狭義のウェーバー研究」を批判的に検討しつつ、ウェーバー的主題に独自の仕方で取り組むことに主眼がある[xiv]。すなわちわれわれは、「社会科学の認識はどのような人格を陶冶しうるか」という問題に対して、一方においてはウェーバー(正当なウェーバー諸解釈および自分で正当に解釈したウェーバー――以下同様)の見解に重大な修正を迫りつつも、他方においては自由主義と個人主義を支持する規範理論の方向において、ウェーバーの理念を発展的に展開しようと企てる[xv]。われわれがウェーバーを検討するのは、ウェーバーと対質し、ウェーバーとの距離を測ることによって、知識の批判的継承を実践するためにである。そこでわれわれは、ウェーバーの次のような主張に倣って、彼の究極的な価値前提と対決したい。
「法律の立案やその他の実践的な提案をする場合は、立案の動機や批判の対象となる論者の理想が十分、具体的に理解できるように解明されねばならないが、そのためにはそうした動機や理想の根底に横たわる価値基準をそれ以外の価値基準と対質することが必要であり、しかも望ましいのは自分自身の価値基準と対質してみることである。他者の意欲に対する評価は、自分自身の『世界観』からする批判でしかありえないし、自分自身の理想に基づく他者の理想の排撃でしかありえない。だから個々の場合に、ある実践的意欲の根底に横たわる究極の価値公理を、たんに研究し科学的に分析するだけでなく、それを他の諸価値公理と関係づけて具象的に理解できるようにする場合には、その関係の提示による『積極的』批判は避けられない」[Weber WL:156-57 『客観性』 34頁]。
われわれはこのウェーバーの主張に倣って、ウェーバーの究極的な価値公理に対して「積極的な批判」を試みることを課題としている。といっても、ウェーバーと対質するためには、まず適切なウェーバー像というものを確定しなければならない。しかしこれまでのウェーバー研究の中でさまざまなウェーバー像が提出されてきたために、どれが最も相応しいウェーバー像であるかを確定することは困難となっている。「最適のウェーバー像はどのようなものか」という問題は、しかし最終的には決着がつかないだろう。すべてのウェーバー像は「解釈」である以上、その解釈の妥当性はつねに争われうるからである[xvi]。したがってわれわれは、ウェーバーと対質するために、これまでの主要なウェーバー解釈とも対質しなければならないという状況におかれている。すなわちわれわれは、ウェーバー研究の系譜を踏まえて問題を検討しなければならないのである。
そこでわれわれは、次のような研究方針を取ることにしたい。@われわれは「真のウェーバー」と「ウェーバー解釈」を区別するのではなく、ウェーバーのテキストを内在的に理解した上で得られた解釈をすべて正当なウェーバー解釈とみなし、また私自身が正当だと考えるウェーバー解釈を追加して、これらの「正当な諸解釈」を「不当な諸解釈」と区別する。Aウェーバーを批判して代替案を提示する場面では、正当なウェーバー諸解釈と対決し、他方でウェーバーを継承する場面では、新たな解釈を提出して理念を発展させる。Bどこまでが既存のウェーバー解釈で、どこまでが私自身によるウェーバー解釈であるかについては、その都度の注記において明らかにする。C不当なウェーバー解釈に対しては安易に批判せず、それを洗練させた上で批判し、また代替案を提示する。およそ以上のような方針をとる点で、われわれの研究は「狭義のウェーバー研究」と区別される[xvii]。
「狭義のウェーバー研究」はこれまで、その中心において「ウェーバーからどのような生き方を学ぶべきか」という問題をめぐって研究を深めてきた。安藤英治、内田芳明、大塚久雄、小倉志祥、折原浩、住谷一彦、中村貞二、山之内靖、嘉目克彦などのウェーバー研究において継承された問いは、「ウェーバーはどのような究極的価値理念を人格のコアに据えていたのか」という人間学的な問題であった。この問題の答えを探る探求の旅は、同時にウェーバーのテキストや人生を「追体験」する旅でもあり[xviii]、そうした探求そのものが「善き生」を促すという点で、大きな意義をもっていた。
しかしこのような研究実践に対しては、ウェーバーを「聖人化」することにつながるのではないかという批判がある。すなわち、ウェーバーの生き方を一つの理想的な人格理念として再構成(加工)することは、ウェーバーを権威化して崇めること(=聖人化)に結びつく点で望ましくないという批判である。そこで他方では、聖人化されたウェーバーを脱聖人化するという研究が進展することにもなった。
ウェーバーを脱権威化するための第一の方法は、ウェーバーの思考とナチス・ドイツとの間に密接な結びつきがあることを指摘し、政治思想の観点からウェーバーを批判することである。モムゼンの大著『マックス・ウェーバーとドイツ政治1890-1920』[Mommsen 1959→1974a=1993-94]は、ウェーバーのいう指導者民主制の構想が、ヒトラーの出現を阻むものではなかったことを指摘することによって、「聖人ウェーバー」という人格像を破壊することに大きな貢献をなした。
脱権威化の第二の方法は、ウェーバーの病的な精神崩壊過程とその後の不倫問題を暴露することによって、倫理の観点からウェーバーを批判することである。ミッツマン著『鉄の檻』[Mitzman1971=1975]は、ウェーバーが禁欲主義から後退して、反近代的・性愛的・神秘主義的・貴族主義(騎士精神)的な立場へ移っていったことを、精神分析と歴史社会学の手法を用いて描き出す。この分析は学術的には疑問視されたものの、しかし俗受けするレベルではウェーバーを脱聖人化することに大きな効果をもった。
第三の方法は、ウェーバーの学問と生き方を一つの理念にまとめあげるのではなく、そこにさまざまな論理的不整合があることを指摘したり、諸著作を編年史的に再構成するという研究である。実際、ウェーバーの主張には不備があること、あるいは断片的であること、また人生の諸局面によって学問的理念が異なることなどを検討すれば、ウェーバーを一つの統一された人格として聖人化することに歯止めがかかるだろう[xix]。
第四の方法は、ウェーバーの著作や論文における知的不誠実性を批判的に解明することである。例えば文献学的な考証によって、ウェーバーが故意に文献操作したことを批判すれば、ウェーバー崇拝を「脱魔術化」することにつながるだろう[xx]。もっともウェーバーのテキストを真理の聖典だと見なさなければ、すなわち、「ウェーバーのテキストにはこう書かれている」といったことを学術的主張の妥当性要求に用いなければ、聖人化はそもそも生じないのだが。
およそ以上のような四つの方法によって、ウェーバーを脱聖人化することができる。しかしこれらの研究は、それ自体としては消極的な意義をもつにすぎない。というのもこうした研究は、既存のウェーバー像に代替しうる人格理念を提示することがないからである。ウェーバーを脱聖人化するだけでは、ウェーバーと積極的に対質するには至らない。それゆえ以上のような四つの「脱聖人化」研究は、権威化されたウェーバーに依拠する「ウェーバー業界」の存在を前提とした、派生的な研究として位置づけられる。
これに対してわれわれは、別の方法でウェーバーに取り組みたい。すなわち、代替しうる別の人格理念を提示しつつ、ウェーバーにおける人格と方法の関係を検討するというやり方である。そうした研究はすでに、出口勇蔵によって試みられている。出口によれば、「ウェーバーを越えるみちはかれのもっていた方法意識[xxi]とはことなる方法意識をもった人間がかれとはちがった社会体制をめざして実践しつつ、認識活動をおこなうところに期待される」[出口1966:294-95]。つまり出口は、新しい社会の担い手を描くために、ウェーバーに代替しうる人間像を提示しようと企てたのである。しかし出口が提示する新しい人間像は、社会主義社会を目指すプロレタリアートを理念化したものであり、われわれはこれを受け入れることができない[xxii]。われわれはむしろ、出口の観点とは対極に立って、ウェーバーに代替しうる人格理念を提示しようと試みる。すなわち、ウェーバーにおいて示された人格理念に対するオルターナティヴは、社会主義社会の担い手ではなく、自由主義社会の担い手である。ここで自由主義とは、共通善を志向しない人々が、なおかつ社会をすぐれたものにしうると構想する場合に掲げうるような、規範的諸原理をいう。問題化、成長への共同投企、価値の拮抗性、闘争的秩序、公正としての正義、私的所有権、社交体などは、その一例である。われわれは、こうした自由主義の諸原理を担いうる人格を問題にする立場から、ウェーバーを批判的に検討してゆきたい[xxiii]。
それゆえ本研究は、ウェーバーにおいて示された人格理念と対決しつつ、自由主義の観点から別の人格理念を提出することに主眼がある。もっとも本論で提出する人格像の約半分は、ウェーバーの人格理念を発展的に継承するものであるから、真正面からの対決というよりも批判的継承と呼ぶべきものである。すなわち本研究は、大塚久雄から嘉目克彦に至るまでのウェーバー研究を、次のような意味で継承しているとも言える。従来のウェーバー研究においては、「ウェーバーはどのような人格理念を生きたか(あるいは理想としたか)」という問題が論じられてきたが、その背景には、「社会科学を営むことによって、どのような人格を陶冶することができるか」という一層根本的な問題が想定されていた。ウェーバー研究者たちはこの根本問題に対して、「私はこのような人格理念がすぐれていると思う」と答える代わりに、「ウェーバーはこのような人格理念を重視した」という具合に応答してきた。つまり、自分の価値観点を前面に押しだす代わりに、それをウェーバーに託して応答してきたのである。ウェーバーに託された人格理念は、積極的に解釈すれば、「社会科学を営むことによって、どのような人格を陶冶することができるか」という根本問題に対する応答になっている。したがって「社会科学の方法と人格」という大きな問題を検討するためには、ウェーバー研究の精神史を批判的に検討することが十分に意義をもつ。本研究は、従来のウェーバー研究の背後に想定されてきたこの根本問題を継承し、概念分析と規範理論の方向において独自の応答を試みようと企てている。次節ではこの課題を探求するに際して、本論の研究プログラムと論述構成について説明し、われわれが提出する人格理念の構想について、その要点を略述したい。
3.課題の構成
本書の課題は、社会科学が陶冶すべき人格理念は何かという問題を、成長論的自由主義の観点に立って検討することにある。言い換えれば、社会科学の認識という営みが、いかにして成長を企図する自由社会の担い手を陶冶しうるのかを示すことにある。
社会科学が陶冶すべき人格像については、これまでとりわけ、日本のウェーバー研究において企てられてきた。ウェーバー研究者たちは、ウェーバーはどのような人格理念を生きたのかという問題を問うたが、その背景には、「社会科学が陶冶すべき人格理念は何か」という根本問題が想定されていた。本書では、これまでのウェーバー研究を批判的に継承する形で、この問題に対する応答を試みる。また自由主義と人格理念の関係については、とりわけコミュニタリアニズムによる自由主義批判に対して、自由主義の人格論をもって応答することが課題となる。自由主義の人間的基礎は何か。本書はこの問題に、社会科学の認識という営みが寄与しうる範囲で応答を試みる。
もっともここで探求する問題は、社会科学的認識の根本問題として措定される以上、さまざまな角度から問題に取り組む必要がある。そこでわれわれは、問題を次のように分節化して接近してみたい。
まず、社会科学の認識が人格形成に対して影響をもつためには、社会認識の「方法論」を通じて人格に影響を与える場合と、方法論なしで、すなわち「認識の機能」そのものによって人格に影響を与える場合の、二つの道が考えられる。「方法論」とは、社会理論について述べた理性的なメタ言明であり、これに対して「認識」とは、理論構築や叙述構成において、対象を理解したり説明する際に作動する理性全般を指す。「認識」は「方法論」を包括する概念であるが、ここでわれわれは、「方法論」とそれ以外の「認識」を区別して分析をすすめる。
もう一つ、社会科学の認識が人格に及ぼす影響については、以下の四つの観点を分節化して考察することができる。
1.方法論によって陶冶しうる人格。あるいは逆に、方法論言明に妥当性を与える人格論。すなわち、どの方法論が望ましいかについて、方法論が前提としている人格像の良し悪しから判断する議論。
2.学問(認識)的態度を身につけることによって陶冶しうる人格。あるいは逆に、学問的態度全般に妥当性を与える人格論。すなわち、方法論だけでなく、学問を営む際に必要となる態度全般について、どれが望ましいかを一定の人格像から判断する議論。
3.学問(認識)においてだけでなく、学問を超えて妥当性をもつ人格論。すなわち、学問において陶冶すべき人格像が、学問を超えて他の社会的領域にも妥当するような場合の議論。
4.学問(認識)が間接的に役立つような人格論。すなわち、道徳哲学において理想とされる人格像について、学問(認識)が間接的にその人格像の陶冶に役立つことができるような場合の議論。
以上の四つである。先の区別、すなわち「方法論と認識」の区別と、今一つの区別、すなわち社会科学的認識と人格論の「関係」の区別――@方法論言明、A学問的態度全般、B学問から学問を超えて妥当する議論、C学問は間接的に役立つ議論――から、本書の課題を次のように分節化して構成することができる(次表を参照)。
表0−1:本書の課題構成
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認識の機能を通じて |
方法論を通じて |
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1方法論言明 |
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問題自由(第五章) |
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2学問的態度全般 |
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問題主体(第一章)、成長論的主体(第二章) |
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3学問から学問を超えて |
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拮抗的高揚主体(第三章) 運命的闘争主体(第四章) |
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4学問は間接的 |
まず最初に、第一章と第二章では、学問的態度全般と、学問を超えて妥当する人格像について、認識の機能と方法論の両方が重要となる領域について検討する。とくに第一章は、本書の中で最も中心的な課題を扱っている。すなわちそこでは、ウェーバーの正当な諸解釈から得られる「近代主体」のさまざまな特徴を整理し、それらの特徴すべてと対質しつつ、対案として「問題主体」という人格理念を提出している。これに対して第二章は、第一章の議論を補う位置にある。そこでは〈決断主体〉の対案として〈成長論的主体〉という人格理念を提出している。第一章における「問題主体」は、応答としての価値を可変的にするだけでなく、よりよい価値へと応答を成長させていく必要がある。そこで「成長」を目指す人格について考察することが、第二章の課題となる。
これに対して第三章と第四章は、先の第一章と第二章において検討した人格論、すなわち、学問から学問を超えて妥当する人格論を、さらに学問が間接的に役立つような領域にまで広げて検討した議論である。第三章の主題である「責任倫理」論は、学問を超えて近代主体像を拡張する際に、ウェーバーが最も重視し、そしてその後のウェーバー研究においても最も関心を集めた議論である。そこで第三章では、ウェーバーのモチーフに導かれて社会科学の認識と責任倫理の関係について考察し、あらたに「拮抗的高揚主体」という人格理念を提出する。「拮抗的高揚主体」は、人格内における価値の拮抗状態を引き受けるが、社会的条件においても価値の闘争状態を必要としている。そこで次に第四章では、ウェーバーの主題である「神々の闘争」を拡張して、開かれた闘争社会というものを考え、これによって成長論的自由主義の理念を拡充しようと企てる。この第四章は、第三章の議論をさらに発展させたものとして位置づけることができる。
最後に第五章では、方法論に人格陶冶機能をもたせる議論として、「価値自由」論を取り上げる。「価値自由」論は、社会科学方法論の最も中心的な位置を占めているが、テーマとしては方法論に特化しているため、他の諸章とは相対的に独立したところにある。したがって本書では最後に位置づけた。
以上が本書における論述の流れであるが、以下に各章の課題と主張について、さらに敷衍して述べておきたい。
第一章では、従来の社会科学が陶冶しようとしてきた「近代主体」という人格像に対して、「問題主体」という人格像を提示することに狙いがある。この「問題主体」は、自由主義の人間的基礎として、本書が提出するもっとも重要な対案であり、後の各章は、この「問題主体」を補助する議論として位置づけられる。したがって第一章は、本書全体の基礎論である。まず第一節において、人格に関する様々な議論を分析的に整理しつつ、人格論の理論的整序と発展を試みる。自己、人格、アイデンティティといった概念を明確に規定し、人物特性や社会的関係性、パーソナリティ要因分析などの観点から人格概念を理論的に分析する。つぎに第二節では、理想的な人格像のモデルについて、これまでのウェーバー研究から得られる六つの近代主体像、すなわち、究極的価値の設計主体・実践的人間・社会科学的人間・文化人・賤民知識人・変革主体の六類型をモデル化して、批判的に検討する。そして最後に第三節では、第一節と第二節の分析を生かして、新たに「問題主体」という人格モデルを詳細に練り上げる。「問題主体」とは、さしあたって自分で問題を設定する主体を指すが、その特徴は、近代主体の各特徴と対比されると同時に、人格の特性・問題の特性・問題設定の特性・問題と価値の関係・実践的振舞という局面から厚く記述することができる。そして問題主体が豊穣化するためには、自生化主義の理念が必要であることが最後に示される。
第二章では、近代主体のもう一つの側面である「決断主義」について検討し、対案として「成長論的主体」という人格モデルを提示する。マルクス主義やコミュニタリアニズムの論客の中には、ウェーバーを近代主体の代表者とみなして批判する人たちがいる。彼らの批判は、近代的な人格が「決断主義」の特徴をもつ点で困難を抱えている、というものである。そこで本章では決断主義の理念を検討し、すぐれた〈決断主体〉を人格モデルとして構成した上で、それに対比される「成長論的主体」という人格モデルを提出する。第一章ではウェーバー研究において肯定的に解釈された「近代主体」を扱うが、これに対して第二章では、ウェーバー解釈において否定的に提出された「決断主義」について扱っている。まず第一節では、「決断」が選択や運命や必然性とどのように異なるのかについて概念分析し、決断を重視することの意味を明らかにする。第二節では、既存の議論を踏まえて、理想的な決断主義像を〈決断主体〉として構成する。第三節では、既存の決断主義批判の不十分さを批判する。そして第四節では、決断の位置づけ、真理・原点論批判、責任論批判という点から〈決断主体〉を批判しつつ、〈成長論的主体〉を提示する。最後に第五節では、〈成長論的主体〉の特徴を運動主体と批判的合理主義の二つの人格理念によって示し、成長論的自由主義の社会秩序構想を略述する。
第三章では、ウェーバーの責任倫理論を、その後の研究を踏まえて、人格論として検討する。ここでは責任倫理に関する新たな解釈として、「拮抗的高揚主体」という人格モデルを提出する。拮抗的高揚主体とは、互いに相反する価値を精神の内部で拮抗させることによって、その緊張感から精神的な高揚を遂げようとする主体をいう。第一節では、これまで解釈された「責任倫理」論を様々な分類軸を用いて整理する。すなわち、日常、英雄、宇宙、目的合理性と価値合理性、道徳と倫理、緊張、反省的/形式的な原理倫理、責任の引き受け方、根拠論と批判的討議、以上の観点から責任倫理の特徴を分析する。第二節では、いろいろな責任倫理解釈があることを示し、それらを類型的に整理しつつ互いに拮抗させることによって、新たな精神の高揚を遂げる高次の主体、すなわち拮抗的高揚主体を構想する。そして最後に第三節では、そのような主体のモデルが第一章において提示した「問題主体」と適合すること、また、自由な社会制度を構想する上で重要な人間的基礎を提供することを主張する。またその場合、社会と人格の同型論を採用することが適切であるということが示される。
第四章では、前章で示した「拮抗的高揚主体」を補う価値として、「運命」と「闘争」について検討する。ここではウェーバーのいう「神々の闘争」を担う主体として、「運命的闘争主体」という人格像を提示しつつ、自由主義の秩序構想について論じる。そのためにまず第一節では、運命とは何であるかについて立ち入った概念分析を試み、闘争的秩序と両立する運命概念を特定する。第二節では「闘争」概念について検討し、「闘争的秩序」なるものが平和で開かれた社会を可能にすることを明らかにする。そして第三節では、運命的な闘争を企てることが、成長論的自由主義と両立し、また、自由な社会を築く上での基礎になりうることを主張する。先の第三章では「拮抗的高揚主体」という精神の内面から自由主義の制度理念を考察したが、これに対して第四章では、「運命的闘争」という対他的な営みから自由主義の制度理念を考察する。
第五章では、社会科学方法論について検討する。第一節では、社会科学が想定する人格の理念について、近代主体、精神的貴族主義、可能主体、問題主体の四つを類型化する。第二節では、社会科学がいかに構成されるのかについて、その基本的な条件をシステム論的に理論化する。第三節では、適した社会科学方法論(観点、客観性、普遍的文化意義の意味)が人格の理念に影響されることを検討する。第四節では、「価値自由」の問題について考察する。ウェーバーのいう「価値自由」は、方法論言明を通じて一定の人格を陶冶する機能をもっている。しかし「価値自由」という方法が、どのような人格理念を陶冶すべきであるかについては様々な解釈がある。ここではそうした諸解釈を整理しつつ、新たに非公認解釈として、「問題自由」という解釈を提示する。「問題自由」は、価値問題を人格のコアに引き受けることによって自律を遂げる人格像を想定している。本章では、この「問題自由」という方法論を掲げて、既存の「価値自由」論を破棄しうる可能性を示し、これによって社会科学システムを再編できることを体系的に論述している。
本書はおよそ以上のような構成で課題を論述していくが、ただし以下の点で課題とアプローチを限定しており、そのことによって独自の貢献を企てていることに留意されたい。
まず第一に、本書はいわゆる「狭義のウェーバー研究」に属するものではない。すなわち、ウェーバーのテキストを再構成したり、ウェーバーの本意(本当のウェーバー像)を探求したり、新たなウェーバー像を提出することに主眼を置くものではない。本研究の主眼はむしろ、既存のウェーバー研究が検討を終える地点から、ウェーバー的主題の検討をさらに押し進めるという点にある。したがって本書ではウェーバーおよびウェーバー研究について検討するが、しかしそれは方法論と人格論に関わるごく限られた範囲に限定されている。例えば「理念型」論や「解明的理解」論といった対象把握の妥当性をめぐる方法論については、人格論との結びつきが希薄であるため、ここでは扱わない。
第二に、本書は、いわゆる思想史や学説史の研究スタイルを取らず、むしろ概念分析と規範理論のスタイルを採用している。したがって、ウェーバーが生きた当時の社会的・文化的・学問的な布置連関を再構成したりすることはせず、むしろ、ウェーバーとウェーバー研究において問題化された事柄を概念的に分析する。つまり、どのような人格像がすぐれているかについて、類型化とモデル化の手法を用い、これまで見落とされてきた局面を分析することに重点をおく[xxiv]。こうした研究は、一見、概念の整理にすぎないと思われるかもしれないが、しかしそうではない。独自の概念分析の提示は、規範的問題を考察するための感受性を養うことに貢献することができる。例えば、「近代主体であることはどのように望ましくないのか」、「決断主義はどのように望ましくないのか」、「責任倫理はどのような点で望ましいのか」などの問題は、「近代主体」や「決断主義」や「責任倫理」といった概念をどのように理解するのかという問題と切り離せない。本研究は、規範的な問題を概念分析の手法を用いてよりよく理解するという方向に、独自の貢献なしている。
第三に、本書では物象化論を扱わない。物象化とは、人格的なものが非人格的になることをいうが、ウェーバーの物象化論については、すでに中野敏男[1983][1993b]や佐久間孝正[1986]によるすぐれた研究が存在する。なるほど物象化論は、非人格的な社会関係を批判的に検討するための分析装置としては有用であるが、しかしどのような人格的関係が望ましいのかについて正面から検討するものではない。本書では、望ましい人格理念について規範論的に検討することに独自の課題がある。
第四に、社会科学が陶冶しうる人格を学問レベルから社会全般のレベルに拡張する際に、そのような拡張がどこまで妥当するのか、あるいは他の善き生との関係をどのように捉えるのか、という問題がある。まず本書の企ては、社会科学によっては陶冶しがたい人格の理想があるという事実において、重大な制約が課されるということを明記しておかねばならない。社会科学の営みがその学問領域を超えたところで陶冶しうる人格というものには限界がある。例えばウェーバーのいう現世逃避的な人格の理想(性愛や瞑想など)は、現世に対する関心を消去するという点で、社会科学によっては陶冶しがたい。またシェーラーの分類を用いていえば、社会科学が直接陶冶しうる人格は、精神的価値類型(天才)の中の文化的・学問的なタイプであり、これに対して、@同じ類型の中の法的・祭司的なタイプ、A聖価値を担う聖人(愛の共同体/普遍的教会)、B生命的価値を担う英雄(生の共同体)、C快価値を担う享楽的芸術家(利益社会)などは、社会科学によっては陶冶しがたい人格類型である。あるいはパーソンズのAGIL図式を用いていえば、社会科学による人格陶冶機能は、Adaptation(適応:経済)とGoal Attainment(目標達成:政治)に対しては有効であるが、しかしLatent Pattern Maintenance(潜在パタン維持と緊張処理を受けもつ下位体系)とIntegrity(統合を受けもつ下位体系)に対しては、むしろ逆機能をもたらすかもしれない[xxv]。このように社会科学の営みは、陶冶しうる人格の範囲と効力において限定されている。
また、社会科学による人格陶冶という課題は、それが過度な権威を背景にして押しつけられる場合には不当である。それは例えば、「社会科学をしっかり学ばなければ人格として劣っている」という軽蔑感情をもたらすことにもなろう。しかし逆に、社会科学の営みと人格の陶冶をまったく切り離してしまうならば、かえって悪しきエリート知性主義をはびこらせることにもなる。例えば「社会科学の営みはそれほど高尚な価値をもっていない」と批判しても、既成の知的権威は現状のまま保持されるだけであろう。これに対してわれわれの企ては、新たな人格理念を対抗的に提示することによって、社会科学の営みがもたらす人格的意義を議論可能なものにしようとしている。人格について批判的に討議するようになれば、各人は自らの人格(自尊心)を鍛えると同時に、それがもつ権威効果に関してはその正当な基準と限界をわきまえるようになるだろう。
学問=認識を通じて人格を陶冶するというわれわれの構想は、すでに一八世紀においてフィヒテが熱心に探求したテーマであった。フィヒテのみならず、ドイツのロマン主義(ゲーテ、シラー、カント、ヘルダー、シェリング、ヘーゲルなど)においては、全人格的要素の完全な発展という理想が掲げられ、外面的・貴族的な礼儀作法に抗して、内面的で自律的な精神性を陶冶することが目指された[xxvi]。しかし一九世紀中葉以降になると、「人格陶冶=教養」の理念は衰退し、学問においては人格を語らないことの方が主流となる。
そうした「ポスト形而上学の時代」に人格についてもう一度語り直したのは、他ならぬウェーバーであった。彼は「社会科学」という学問を新たに構想する際に、人格と社会認識の関係を別の仕方で接合しようと試みた。すなわち社会科学は、人文科学や哲学や学問外の体験とは違って、その営みによって全人格の発展を引き受けることはできないが、しかしたんなる道具的専門人を輩出する以上のことはできる。社会科学はその中間に、陶冶しうる別の人格理念を掲げることができる(第一章第二節参照)。ウェーバーはそのような人格について、とりわけ方法論的著作のなかで断片的に語ったのであった。
ところがウェーバー以降の社会科学方法論は、再び人格の理想を語らないようになる。後にハバーマスは彼の批判理論において、認識と人格の関係を再度問題化することになるが、しかし彼の関心は自律した主体の「解放」という側面にあり、独自の人格論を提示するには至らなかった。ハバーマスはこの課題を断念して、むしろ解放の社会条件を探求するコミュニケーション理論へとすすんでいった[xxvii]。
これに対して本研究は、社会科学によって陶冶しうる人格は何かというウェーバー的主題に、正面から取り組もうとしている。したがってわれわれは、専門的な社会科学を破棄して綜合的な人文学の伝統に戻ろうとするのではなく、また逆に、社会科学を認知的・道具的な理由からのみ正統化しようとするのでもない。言い換えればわれわれは、専門分化した社会科学の地位と意義を認めつつも、しかし方法と人格を切り離すような社会科学のあり方に対しては批判的な立場をとる。本研究の狙いは、社会科学の営みが陶冶しうる人格の理念を語り直すことによって、既存の社会科学がもつ正統性に対して再考を促すことにある。
最後にくりかえし強調するならば、われわれは社会科学の営みによって「善き生=人格」を志向しつつも、社会科学によっては陶冶しがたい「善き生」があるということを見失ってはならない。われわれの汲み尽くしえない生は、社会科学が対象化しない領域においても豊穣さをもっており、またそうした豊穣さを失うならば、人間としての魅力の大部分が失われることも事実である。しかし他方で、社会科学の営みにおいて特定の真理観に支えられた生が、「ある種の善き生」に結びつき、またそれが「ある種の美」と結びつくということもある。この点を見極めるならば、「社会科学の認識という営みはいかにして成長論的自由主義を担うすぐれた人格(人間類型)を陶冶しうるのか」という問題に、限界をわきまえて取り組むことができるだろう。自由主義社会の理想においては、われわれが構想する「プロジェクトとしての成長論的自由主義を担うフロンティア精神」といえども、他の善き生と拮抗状態におかれるのであり、そうした善き生を排他的に遇することはマナーに反する。しかし逆説的ではあるが、われわれは特定の善き生を掲げてこそはじめて、社会科学がもつ権威の限界を議論可能な問題にしうるのである。
[i]
Weber[WL:217-18『批判的研究』105頁],
Rossi[1987=1992:22].
[ii]
社会科学とは、制度に即して公式的に言えば、大学において研究されている経済学・政治学・社会学の全体を指す。しかし実質的に言えば、社会科学は他の研究機関や在野にも存在するし、また逆に、大学における社会科学分野には非社会科学的な要素も多い。われわれの定義では、社会科学は、@真理に準拠する点で、単なる実利的有効性を求める学問とは区別され、A世俗社会に関するという点で、世俗から隔離された美的・知的理想郷を求める人文主義とは区別され、B社会に対する因果説明や理解や文化意義の解釈を関連づけてもたらすという点で、たんなる道具的な社会工学や文献学とは区別され、最後に、C探求方法を体系化している点で、文芸的創作とは区別される。こうした社会科学の規定は、理解や意味を含む点で、精神科学との結びつきを求める「ドイツ社会学」(アロン)を排除しない[Aron 1966 =1982:164f]。
[iii]
ウェーバーは方法論の必要性をパラダイム転換期に限定したが、これに対してわれわれは、方法論を「人格の陶冶」という観点からつねに問うべきものと考える。この点においてわれわれは、高島[1975:esp.32-43]がマルクスとウェーバーに対して立てた問い――科学の営みを思想態度や生活態度(エートス)に媒介するものとしての「方法態度」はどのようなものか――を継承している。また内田芳明[1972:45]は、マルクスにおいても禁欲的プロテスタンティズムの人間類型(エートス)が前提されていたことが、マルクスに潜在するウェーバー的問題であるとしている。なおウェーバー以降には、実証的・経験的な社会科学と「人格」の関係を、現象学の側から考察することが試みられている[Strasser 1962=1978]。シュトラッサーは、一方において人間の主観を除去する科学主義を排しつつ、他方において主観を絶対視する実存主義を排し、これら二つの営みを止揚する第三の道として、「客観性への投企」が「自らの学問的環境を創り変えていく主体」を形成するという考えを提示している。これに対してわれわれは、「人格」の概念をもっと倫理的・政治的・社会的な関わりにおいて考察していきたい。
[iv]
その前史として、戦後日本の「主体性論争」がある。梅本克己[1977:213]は、「人間は自己の体験しえぬ未来の人間の幸福のためにいかにして自己の生命を捧げうるのか」という問題を立て、唯物論による社会認識が革命主体の実践を方向づけうるとみなした。争点となったのは、マルクス主義は革命の担い手となる人格の倫理的主体像を、唯物論という存在論からどのようにして引き出すことができるのかという点であった。われわれはもはや唯物論や革命主体という理念を受け入れることができないが、しかし社会認識と人格の関係を問題にする点では、主体性論争のモチーフを継承している。
[v]
物象化論とは別に、ミュルダールの社会科学方法論がある。ミュルダールによれば、社会科学は一定の「価値評価(valuations)」を前提とするが、社会科学の探求はそうした価値評価を首尾一貫したものにするために、低次の価値評価(偏狭で利己的で経済社会的利害関心に基づくもの)から高次の価値評価(国家などの公的機関のなかで考え行動することで自覚されるもの)へと人格を陶冶すべきだと考える[Myrdal 1969=1971:esp.28,61,67]。しかしミュルダールも認めるように、国家によって道徳水準が下がること(例えばベトナム戦争やナチス)もある以上、高次の価値評価を公的機関と重ね合わせることには危険が伴う。高次の価値評価は、それ自体が争われるべきものとして位置づけられなければならない。
[vi]
もっとも日本では、マルクスの物象化論からウェーバーの物象化論へと研究が進展し、そこにおいて「人格」の理念が問題化された。中野敏男[1983]、および鈴木[1992]を参照。また中野敏男[1997]は、大塚久雄のウェーバー理解(とりわけ『プロ倫』の改訳にみられる理解)が「システムの物象化」に対して無自覚であると批判している。
[vii]
Mulhall & Swift [1992→1996]を参照。
[viii]
Sandel[1982=1996:261],
Taylor[1985a,b]を参照。Taylorのこの主張は、もともとFrankfurt[1971]において主張されたものである。Taylorの人格論(自己解釈的存在)についての私の批判は、橋本努[1997]を参照されたい。またこれに対するテイラー擁護論として、中野剛充[1998]を参照されたい。
[ix]
この問いは、大塚久雄の「近代化の人間的基礎」[1969a:163-260]を批判的に継承するものとして位置づけられる。大塚は、「エゴイズムの自由」を排して真の自由主義を成立させるために、ピューリタニズムの禁欲主義的エートス(精神的雰囲気)を教育によって生み出し、巨大な生産力=産業経営体を建設することが必要だと主張した。これに対してわれわれは、自由主義の人間的基礎という問題に、社会科学的認識の営みによって陶冶しうる範囲において、別の人格理念を与えることを課題としている。戦後精神とウェーバー受容という問題からこうした課題の重要性が生じることについて、蔭山[1976:151-56]を参照されたい。
[x] 戦後の経済成長第一主義は、成長の基準を一元化し、物質的かつ量的な基準を掲げた点で、望ましいものではない。経済指標に関していえば、GNPに占める情報消費率の成長や、各種の豊かさ指標などを用いて、多元的で質的な成長を語る社会が相応しいだろう。
[xi] Weber[WL:499『価値自由』39頁]において示された二命題を参考に作成。
[xii] これに対してルーマンの場合、社会学の主題を前者の命題(可能主体の陶冶)に絞り、後者の命題(近代主体の陶冶)を破棄している。前者に関してルーマンは、社会学的啓蒙の課題を「可能な行為選択肢を理論的・実践的にコントロールするような問題観点」を発見することに求め、代替しうるさまざまな機能的等価物を競合させることによって、諸可能性を選択肢として構造化することを課題とした[Luhmann 1974=1988:24-28, 1974=1984:24-44]。しかし後者に関してルーマンは、次のように批判する。すなわち、社会的なものに関する理論は、主体の主体性(近代主体)に規定されているのではない以上、近代主体を確立するという関心から社会の相互調整や一致について考察することは、「いかにして社会秩序は可能か」という社会理論の根本問題を解明する道をふさいでしまう。そしてこのことはウェーバーの場合にも当てはまる[Luhmann 1981=1985:82f]。こうしたルーマンの批判に対して他方では、ウェーバーの社会科学が、価値を問わない虚無的実証主義に結びつくとする批判もある[Midgley 1983:155]。しかしわれわれは、ウェーバーが社会と人格の関係を規範的に問題化したことを積極的に評価し、この主題を規範理論の方向に継承したい。
[xiii]
Zingele[1981=1985:9f]によれば、二〇世紀前半のドイツにおけるウェーバー受容は、人格的な個人崇拝という面が強く、著作の検討は回避されていたという。
[xiv]
ウェーバー研究のアカデミックな分業化と相対的独立が抱える問題点について、内田義彦[1967:esp.39-53]の指摘を参照。
[xv]
ウェーバーは、一方では、人々の幸福を達成するための経済的自由主義を否定して「保護主義」を支持するが、しかし他方では、官僚制と社会主義の組織を批判する点において自由主義的な立場をとる。これに対してわれわれは、後に述べるように、中央当局の政治を縮小して分割していく点で、ウェーバーよりも自由主義的・個人主義的な立場をとる。なおウェーバーがどのような自由主義に反対したのかについては、仲内[1997]を参照。
[xvi]
ただしこのことは、既存のウェーバー解釈を超えてさらにウェーバーに迫るような解釈を提出するという探究の道を塞ぐものではない。
[xvii]
こうした方針が真のウェーバーを理解していないと批判することは、次のような意味において不毛である。すなわち、ウェーバーの人格は目的格meのレベルにある以上、それは解釈された総体を無視して判断することはできない、ということである。本書においてウェーバーを批判することの意義は、墓場を掘り返してウェーバー本人の生き方に変更を迫ることではなく、ウェーバーの人格を生き方のモデルとして掲げる人々や、あるいは反発を抱いている人々に対して、反省の素材を提供することにある。
[xviii]
もっともウェーバーをテキストのレベルで捉えるか、それともその人生を追体験するか、という関心の違いがある。前者に重点を置くものとして、とりわけ折原[1988][1996]、後者に重点を置くものとして、とりわけ安藤[1965][1972][1992]がある。なお橋本直人[1993]は、人物としてのウェーバーがもつアクチュアリティを疑問視しながらも、われわれのアクチュアリティがウェーバーのテクストによってある程度規定されているからこそ、ウェーバー研究に意義があるとしている。
[xix]
例えばウェーバーの学問論集は、『社会学の基礎概念』と『理解社会学のカテゴリー』を除いて、外部からの依頼や具体的な批判対象をもって書かれており、体系性を意図して書かれたものではない。そこで、ウェーバーの学問論を体系的・統一的に再構成するか、あるいは非体系的・多義的であるとしてその断片的性格を浮き彫りにするかをめぐって、さまざまな研究がなされてきた。統一性を志向する解釈は、ウェーバーの認識論の一貫性と、責任倫理主体という人間学的前提を中心においている[Schelting 1922],[Henrich 1952]。これに対して他方では、統一的再構成はウェーバーの聖人化を招くと非難し、ウェーバーの学問論集をその推移や成立史的影響関係から解明しつつ、その多元性を解明しようとする研究がある。ウェーバーの前期の学問論のみを方法論とする立場[Tenbruck 1959]や、後期の方法論を完成とみなす立場、あるいは『理解社会学のカテゴリー』の独自の位置を確定する立場などがある。これらの立場に対して澤井[1985]は、ウェーバーの方法論が、歴史的事象の個性的内容を強調する志向から、歴史の類型的・規則的現象の普遍的形式を強調する志向に徐々に変化しおり、この変化は、ウェーバー社会学の内容およびウェーバーの生活史との関係から説明できるとしている。学問論と社会学と人間史の三つは、ウェーバーのなかで物語的に統一できるとする立場である。また椎名[1996]は、ウェーバーのプロ倫テーゼに対する内在的な批判を試みることによって、ウェーバーを脱魔術化することに成功している。
[xx]
羽入は、文献学のアプローチによって、ウェーバーの論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」におけるルターの引用が知的誠実さを欠くことを批判している。この批判によって、ウェーバーの著作をいわば「文献学という万力の拷問」にかけ、従来のウェーバー研究にみられる「ウェーバー崇拝」という権威主義的な雰囲気を「脱魔術化」できると自ら意味づけている。羽入によれば、ウェーバーの作品の魔力はその「理解不可能性」にある。理解できない言葉は、人々を不安にさせる。そしてその不安から、その言葉を理解した人を崇拝するように導くことになる。またウェーバーを理解した人たちは、ウェーバーの残した意味不明な言葉を一層秘教的な魔術的言辞へと祭り上げていく。ここにウェーバー産業が成立するという[羽入1998:74-75]。
[xxi]
ここで「方法意識」とは、「人間が社会に生きて実践的な交渉をもちながら認識という機能をはたそうと身がまえるときに、意識のなかにやどる基本的な姿勢」をいう[出口1966:278-79]。
[xxii]
出口がウェーバー方法論の最大の問題点として挙げているのは、それがブルジョア的個人の方法意識に由来するという点である。「経験的な社会科学において、『合理化』とはまずブルジョア的個人について考えられ、それを人間性一般にまた社会体制に拡大したものに他ならない。したがって、経済学においても、ブルジョア的個人の合理性が推理の基準になる。」「ブルジョアジー的個人の方法意識をば方法論上の必然的な条件と祭り上げることによって、ブルジョアジーの方法意識、つまりブルジョアジーの考え方を絶対視し、それ以外の人間の考え方をば方法論から閉め出そうとする意図が秘められている」[出口1966:288-89]。ブルジョアジーの態度が問題なのは、次の五つの点においてである。@社会的現実を理念型という非実在によってしか捉えられないとする不可知論的態度。A社会現象をその運動という相において捉えない静観的態度。B理念型によって社会を断片的にしか捉えようとしない態度。C認識は相対主義でしかありえないとする態度の徹底。D社会を合理化する個人主義という態度。以上の五つの態度を乗り越えるために、出口は社会現象の認識が「経験的な実在を構成をとおして写しとる」という構成的模写説を主張する。出口は、ウェーバーの不可知論、静観、断片的、相対主義といった否定的な側面を乗り越えて、全体としてはウェーバーの方法論的成果を弁証法的に綜合しようとするのだが、このような企図において、ウェーバーの人格像の積極的な部分への批判は等閑視されている。これに対して本書では、ウェーバーの人格理念をすぐれたものとして描きつつ批判する。第一章第二節を参照。
[xxiii]
同様の問題提起として、Wellen[1996]がある。Wellenは、ウェーバーと現代のコミニュニタリアンが自由主義と人格の関係を問題化する点で共通するとしながらも、ウェーバーの自由主義が、政治と道徳の両義性を引き受ける人格を想定したことの意義を評価している。また住谷は、「自由と民主主義」の問題が社会体制の問題に解消できないことを、ウェーバーは「彼の生におけるその思想と行動でもって示した」と指摘している[住谷1970:261]。
[xxiv]
ドイツではハバーマスやシュルフターが、ウェーバー研究において精緻で複雑な「類型学」を試みているのに、日本ではこうした方向に研究が進まないのは、おそらくウェーバーを人文的・思想史的・学説史的・史学的に受容するのみで、社会理論的な継承がなされていないからである。類型学はたんに概念を整理するだけでなく、次のような二つの威力をもつことを、ここで強調しておきたい。類型学はまず第一に、概念を分解することによって理念の一面的で権威的な伝達を挫くことができる。例えば「ウェーバーのいう価値自由が重要だ」といった言明の権威主義的伝達要求を挫くことができる。そして第二に、新しい類型の発見によって従来の意味理解に亀裂をもたらし、新たな意味体系の構築を促すことができる。例えば責任倫理の新たな類型の発展は、従来の「責任倫理」イメージに対して再考を促すことになるだろう。
[xxv]
Parsons
& Smesler[1956=1958:30,82]参照。社会科学の認識は、IとLについて、パーソンズが描いた保守的な秩序維持とは逆に、「闘争的秩序」をもたらすことができる。本書第四章第二節を参照。
[xxvi]
これに対してわれわれの企ては、部分的人格の陶冶である。カントは自律に人格の尊厳を求め、フィヒテはさらにそれを知の営みの次元(Tathandlung)において基礎づけたが、われわれは自律一般ではなく、特定の自律(第一章における「問題主体」)に人格陶冶の基礎をおき、さらにまた、社会科学とそれが間接的に役立つ領域に問題を限定する。ただし以下の点では、われわれの企てはフィヒテを継承している。@人格上の成長を互いに誘発し促しあうという教育の理想、A対象とのかかわりを人格の陶冶という観点から求めること、Bフォーラム型の探求共同体を構想すること、Cヘーゲルのように矛盾の宥和的綜合を企てるのではなく、むしろ動的緊張関係を保持すること。Kant
[1785=1989], Fichte[1794=1930], 長澤[1990]を参照。
[xxvii]
『認識と関心』においてハバーマスは、三つの認識関心を区別している。@実証科学・法則定立科学における道具的認識関心、A解釈学・精神科学における実践的認識関心、B批判理論における解放的認識関心、である。ハバーマスの企ては、@とAをBに結びつけ、「生の連関」から「認識」の営みに妥当性を与えることにある。その場合の「解放的認識関心」とは、一方では自律的な反省認識による自己解放(すなわち独断論的従属性からの自由)を目指し、他方ではそうした主体を生み出すために必要な条件として、疎外された体制を変革し、社会政策上の最終的な方向(解決)を与えることにある。しかし前者に関しては、ハバーマスは基本的にフィヒテの主体論を受け入れており、独自の人間学を目指しているわけではない。ただし後者については、「主体がその発生史のなかで自己に対して透明になること」によって経験される解放の力を重視し、それが人々のあいだの間主観的な了解において実現されると考え、『コミュニケーション的行為の理論』においては独自の社会構想に向かっている[Habermas 1968=1981:esp.204-23, 1981=1985-88]。本書では人格に関心を当てることからハバーマスの議論を検討しないが、認識と社会体制の関係に関するハバーマスの見解を検討することは、今後の課題となろう。